(きしょうみょうじん)
その昔「
大多鬼丸(大滝丸)
(おおたきまる)
」という「蝦夷
(えみし)
」の大将がおりました。大多鬼丸はこの地の通称「地獄田
(じごくだ)
」というところでお母さんが田植えしている最中に生まれました。急なお産に困った人たちは近くの沢
(さわ)
に産屋
(うぶや)
を建てて産後を過ごしました。成長するにつれて大変武勇に優れ、人々は「鬼
(おに)
」といって畏
(おそ)
れ敬いました。やがて大多鬼丸は南陸奥の覇者
(はしゃ)
になりました。この謂
(いわ)
れをもって、この地を「鬼生田
(おにうだ)
」といいました。つまり
鬼
の
生
まれた
田
んぼということです。
朝廷は蝦夷を滅ぼすため、延歴二十年(801年)坂之上田村麻呂
(さかのうえたむらまろ)
に征伐を命じました。大多鬼丸は、大越(現田村市)の鬼穴に味方とともに籠
(こも)
りこれを迎え撃ちました。しかし敵
(かな)
わず紀州の熊野に落ち延びたと伝えられております。
田村麻呂は大多鬼丸の武勇を称える一方で人々の心を安堵
(あんど)
させるため廣度寺
(こうどじ)
を建立しました。また土地の人は大多鬼丸を偲び鬼生明神堂を建立してその武勇を称えました。当山では大同年間の創建以来、大多鬼丸を鬼生明神として祀り、諸人の願い事を叶
(かな)
えてくれる明神様として広く信仰を集めるようになりました。
中風除け、厄除け、さらには諸難を遠ざけ福を招く明神様として今日なお多くの信仰を集めております。
曹洞宗鬼生山
廣度寺
〒963-0921 郡山市西田町鬼生田字前田119
TEL 024-972-2714 FAX 024-972-2500
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